明るくて、料理が得意だった母
母は70歳まで仕事をしていて、いつも元気に働いていました。特に決まった仕事を持っていた訳ではありませんが、70歳の時には清掃の仕事をしていて、これが1番長かったのではないでしょうか。私が子どもの頃には、歯医者さんで歯科助手のようなこともやっていて、学校帰りにはよく母の仕事場に行って、ついでに歯の治療もしていたような記憶があります。きっとアットホームな職場だったのでしょう。兄と私の二人兄弟なのですが、家の中で紅一点の母の明るさは、今思えば安らぎになっていたと思います。
父も母も福岡の出身でずっと地元で暮らしてきました。母はその明るい性格のためか友だちも多く、カラオケなどにもよく出かけていたようです。父とも仲が良くて、釣りが趣味の父と一緒に出かけては、母は山菜採りをしたりして、その日の収穫が夕飯に並ぶこともしばしばでした。
母は料理も得意で、食べ盛りの私たちはいつも満足でした。私の悩みもよく聞いてくれて、答えをくれる訳ではないけれど、寄り添ってくれました。私にとって「母親」といえば私の母であり、理想像です。唯一無二の、本当に自慢の母でした。
少しずつ認知症が進行しても、父が懸命に介護
母が仕事をやめて、5年後くらいからでしょうか、認知症の症状が出始めました。私は就職してからは転勤が多かったのですが、その頃には福岡に戻ってきていたので、よく両親とは会っていたのです。
最初は認知症なのかもわからず、とまどいながら接していました。認知症は急に進行する訳ではないですが、徐々に私のこともわかっていないのかなと思うようになっていきました。
ただ私の娘はおばあちゃん大好きで、小さい頃からよく遊んでいたせいか、娘のことはわかるようでした。認知症になってからも会いに行くと、娘とは一緒に公園に行ったりしていました。とはいえ、徘徊の症状などもあったため、父は大変だったと思います。
それでも父は「自分が面倒をみる」と言って、ほとんど最後まで家で母のことを看ていたのです。
父はずっと家で面倒をみたいと言っていましたが、自身の入院もあり、周囲からのすすめで母を入院させることになりました。
ある朝、父は朝から母を見舞い、自分も診察のため一時病院を離れました。その間に母は危篤状態となり帰らぬ人に。確かにあまり良くない状態ではありましたが、まさかの出来事に家族の誰も母の最期を看取ることができませんでした。
急なお葬式でも最期に母をゆっくり見送れました
急なことだったけれど、今後どうするかを決めなければなりません。葬儀のことなど何も考えていなかったため、特に比較することもなく「小さなお葬式」に決めました。火葬のみという方法も考えましたが、父がお葬式はしたいと希望したのです。この先は父が一人暮らしになるため、父にできるだけお金を残そうと思い決断しました。
亡くなった日の夜は式場で家族一緒に母と過ごしました。お葬式代と別料金がかかりましたが、急なお別れだったので最期に母とゆっくり過ごせたのは良かったと思います。親戚がたくさん来て駐車場が混んでしまったのですが、スタッフさんが丁寧に対応してくださいました。
父は母と同い年で現在80歳ですが、まだ現役で仕事をしています。仕事があるので救いになっていますが、仲の良い夫婦だったのでやはりふとした時に寂しいようです。しかしきちんと母を見送れたので、心残りはないと思います。母も見守ってくれているのではないでしょうか。
※一部式場ではプラン料金以外に式場利用料等が発生します。
小さな一日葬をご利用されたお客様インタビュー
どんなことでもお気軽にご相談ください
お客様サポートダイヤル
通話料無料・24時間365日