経済的に苦しい中、ピアニストの私を育てた母
今思えば、母には苦労をかけっぱなしだったと思います。うちには子どもに習い事をさせる余裕なんてなかったのに、幼稚園のころからピアノを習わせてもらい、家での練習用にピアノまで買ってくれました。そのせいで母は日中の仕事だけでなく内職まですることになりましたが、いつでも私を応援してくれました。夜なべをする母の背を見て、私は一層ピアノに打ち込むようになったのです。
おかげで大阪音楽大学を卒業でき、今はピアニストとして活動ができています。母の応援がなければ、今の私はありません。ピアニストとしての私も母が生んでくれたと思っています。
公演は地元だけでなく地方でもあり、私は年がら年中全国を飛び回っている状態。そんな私を、母は色んな人に自慢していたそうです。手作りの衣装も届けてくれて「私の縫ったドレスでピアノを弾いている」と周囲の人に話していました。一緒に舞台を作っている気持ちだったのかもしれません。その衣装を纏って舞台に上がることが、照れくさくもあり誇らしくもありました。
新しい母の一面に気付けた同居生活
とても元気だった母が針を持てなくなったのは、80代に差し掛かろうというときです。洋裁ができなくなるだけでなく、歩くのがおぼつかなくなり、料理も焦がすようになっていました。そのことに気付いて一緒に暮らすことにしたら、母はとても喜んでくれました。
同居を始めてから、母にはやりたいことを思い切りやってもらうことに。私は母のことをいつまでも「母」だと思っていましたが、母は我が子のことで我慢をすることがなくなったせいか「自分」を出すようになって、ぶつかることもありました。でも、絵画や習字、旅行など「あ、こんなのが好きだったんだ」という発見が多々あって、一緒に暮らして本当に良かったと思います。
母の死は、病院から今日か明日かと告げられていたので、覚悟は決まっていました。疲労がたたったのか、リビングでうつらうつらと居眠りをしていると、母も隣で寝ている感覚になったんです。「お母さん、そこにいるの?」と思って体を起こしましたが、母はいません。病院にいるのだから、当たり前ですよね。
直後、病院から母が永眠したという知らせをもらいました。午前2時47分。「さっきまで母と一緒にいたはずなのに」と、不思議な感覚になったのを覚えています。
一から十まで母の希望をすべて叶えてくれた
病院からの知らせを受け、すぐ連絡をしたのが「小さなお葬式」です。テレビCMで知り、5年ほど前から会員になっていました。お葬式のこと手続きのこと、分からないことだらけだったので、気持ちを落ち着かせるためにもすぐ連絡しました。
忘れてはならない母の希望は、私と2人だけの葬儀にすること、そして自分で用意した死に装束で旅立つことでした。でも亡くなった母と対面したときには、すでに病院で綺麗にしてもらったあとだったんですね。なので、死に装束は上にかけるだけになってしまうと思っていたんですが、スタッフさんに希望を話したら、納棺師を手配して着付けをしてくださったんです。死に化粧も施してくれて、何だか母が微笑んでいるように見えました。
これだけでも感動したのに、母の希望である樹木葬のある霊園まで紹介してくれました。母の好きな花に囲まれた素敵な場所です。
実は、母の遺影は私が撮影したものなんです。鳥羽水族館に旅行で訪れた際、コツメカワウソと握手しているときのもの。この笑顔のまま旅立たせてくれた小さなお葬式には感謝しかありません。おかげで葬儀から埋葬まで、母の希望をすべて叶えてあげることができました。ありがとうございます。
小さな火葬式をご利用されたお客様インタビュー
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