現代の葬儀といえば、通夜と葬儀・告別式を行い火葬するのが一般的な流れです。
では、大昔の縄文時代や文明開化のあった明治時代などの他の時代には、どのような葬儀が行われていたのかご存知でしょうか。時代が変わると「死」に対する考え方や、宗教が葬儀に与える影響の大きさも異なります。
今回の記事では、縄文時代から大正時代まで、時代を追って変化してきた葬儀内容をご紹介したいと思います。
<この記事の要点>
・縄文時代は「屈葬」が一般的で、弥生時代になると「伸展葬」が普及した
・古墳時代には大型の前方後円墳が多く作られ、飛鳥時代は「薄葬令」により古墳の大きさが制限された
・鎌倉時代には火葬が広まり、室町時代には寺院の境内に墓地が設けられるようになった
こんな人におすすめ
日本の昔の葬儀に興味がある方
時代ごとの葬儀内容を知りたい方
日本の火葬の起源について知りたい方
縄文時代には、屈葬という埋葬方法が行われていました。屈葬とはその名のとおり、身体を曲げた状態で埋葬されることです。この屈葬は日本以外ではあまり見られない埋葬方法で、他の国ではアフリカの一部地域にのみ存在するようです。
屈葬を行っていた理由には下記のようにいくつか説があります。
・墓穴を掘る労力を少なくするため
・死後の世界でも安らかに眠れるように安楽の姿勢をとらせた
・胎児と同じような体勢をとらせて復活を願った
・死者の霊が浮遊しないよう動きにくい体勢にした
屈葬されている遺体の中には石を抱いていたり縛られたりしている遺体が多いことから、死者の霊が浮遊しないように、というのが最有力な説とされています。
弥生時代になると、屈葬から一転して伸展葬が行われるようになります。屈葬とは逆で、身体を伸ばして埋葬する方法です。縄文時代でも一部特権階級には伸展葬が許されていましたが、弥生時代では庶民の間でも伸展葬が一般化しました。
伸展葬に変わった理由はいくつかありますが、わざわざ身体を曲げる時間的余裕がなくなったことや、死者が生き返らないことがわかったからだとされています。また、この頃から墓が見られるようになったとされています。これは、稲作が伝来したことで農耕が発展し、定住化が進んだことに起因しています。
弥生時代以降、大陸から文化が流入してきた影響もあり、土葬が強く根付くことになります。
古墳時代では、支配階級の埋葬方法が大きく変わりました。
古墳と呼ばれる大型の墓が全国的に広がったのです。特に古墳時代の前半期は極めて大型の前方後円墳が数多く登場し、その多くは豪族1人を埋葬するためだけに作られました。棺は石室と呼ばれる部屋に納められ、棺のほかに副葬品として銅鏡や碧玉製宝器、太刀、剣、鉾などが一緒に埋葬されています。
その一方で、庶民の埋葬に関しては特筆した変化は特になかったようです。
古墳時代の末期と飛鳥時代初期は年代がかぶっていて、飛鳥時代でも古墳は作られているものの、葬儀文化において大きな変化が起こっています。
聖徳太子が618年に自分の墓を建てたという記録があり、その墓も古墳です。しかし、646年に出された「薄葬令」によって、古墳の大きさや築造にかける期間、人員などが細かく制定されるようになりました。これにより、古墳時代初期のような大型の古墳は作られなくなったのです。
701年に制定された大宝律令以降は、三位以上の身分をもつ者だけに古墳を作ることが許されました。この頃、庶民に対しても埋葬に関する規定が定められました。庶民は一定の範囲の葬所を利用し、複数の場所に散埋することは許されなくなりました。
また、初めて火葬が行われたのがこの飛鳥時代です。700年に道昭という僧侶が火葬にされたという記録が残っているほか、702年には持統天皇も火葬にされています。しかし、火葬はまだ一般的には広まらず特権階級の間でのみ行われていたようです。
奈良時代に入ると、首都の内部に墓を作ることが禁止されました。そのため、平城京の敷地内からは当時の墓は発見されていません。平安時代に入ってもこの基本方針は変わらず、天皇や貴族といった特権階級の墓であっても京の外に作られました。
一方、庶民の墓は飛鳥時代と同じく一定の場所が設けられていて、そこに埋葬するように定められていました。このほか、『梧庵漫記』という記録には、京の周辺の山野や河原が庶民の葬られる場所だった、という記述が残されています。
平安時代には、高野山に火葬した骨や遺髪を納めるという「高野納骨」が盛んに行われました。1085年に崩御した性信法親王は遺骨を、1108年の堀河天皇は遺髪を高野山に納めました。仏教の教えにおいて、悟りを開くものがいない時期を意味する「末法」だといわれていたこの時代、天皇や貴族などの特権階級の人々は、弥勒の浄土である高野山に納骨されることを願っていたようです。
鎌倉時代になると、浄土宗や浄土真宗といった鎌倉仏教が一般的に普及することとなり、その結果として火葬も広く利用されるようになりました。
しかし、火葬が広まったとはいえ火葬場がそうそうあるわけではなく、また火葬技術が未熟なことから遺体を完全焼却することが難しかったため、土葬と火葬の両墓制が長らく続くことになります。また、鎌倉仏教が広まったために、仏教の死生観も一般的に知られることとなりました。こういったことから、本格的な葬儀が一般的に行われるようにもなりました。
室町時代では、応仁の乱以降に寺院の境内に墓地を設ける例が数多くあります。京中寺院における埋葬は相変わらず禁止されていましたが、それ以外の阿弥陀寺や知恩寺に対しては、特例として境内への土葬が許可されました。住人たちの「寺院の本堂近くに墓を立てて追善供養を受けたい」という願いの結果であり、これが現在の寺院墓地の始まりとなっています。
江戸時代の葬儀については、こちらの記事をご覧ください。
明治3年に全ての寺院墓地が国有地となり、明治5年には法律によって自葬祭が禁止されました。これにより、葬儀は全て神主や僧侶によって行われることになったのです。
また、明治初期は仏教の排斥と神道の推奨から火葬禁止令が出され、火葬が行われなくなりました。
しかし、火葬再開を望む声が多かったことに加え、土葬用の土地が枯渇してきたことから、火葬禁止令は2年で撤回されることになりました。その後は衛生的な観点から火葬の有用性を認め、火葬が義務化されるようになりました。また、この頃から欧化のあおりを受け、喪服が白から黒へと変化していきました。
大正時代に入ると霊柩車が庶民の間でも使用されるようになり、輿を使った人力での葬送は徐々に見られなくなっていきました。こういったこともあり、現代の葬儀の原型は大正時代の頃にできたと言えるでしょう。
様々な時代の葬儀についてご紹介しましたが、いかがだったでしょうか。
古い時代についてはあまり文献なども残っていないため、詳しいことがわからないことも多いものの、断片を知るだけでも時代の流れを感じることができます。
こういった葬祭の観点から歴史を見てみると、いつもの歴史も違った見え方ができるのではないでしょうか。
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